第46回     

  
 1200年の歴史の中で

福山市新市町吉備津神社 本殿

 1200年の歳月というのは、長くても100年ほどしか生きられない人間にはとても実感できない時間である。しかし、歴史を継いでいくことで、その重みを受け止めることはできる。
 大同元年(806年)備中一の宮(岡山の吉備津神社)より分祀された備後一の宮(新市の吉備津神社)は2008年に1200年を迎える。
 この途方もない歳月、どんな歴史が紡がれてきたことであろう。
 備後一の宮は、神社周辺の山城や門前町を含めた一大城郭都市であった。備後国の有力国人として勢力を広げた宮氏は、この地を拠点として南北朝期から戦国期にかけて活動し、歴史にその名を刻んだ。
 しかし、元弘元年(1331)に後醍醐天皇について、桜山城で挙兵した宮氏一族桜山四郎入道茲俊は、翌年には戦いに破れ、吉備津神社に火を放ち、自刃した。
 焼失してしまった社殿は、永和二年(1376)に再建されたものの、その後宮氏の総領家と思われる下野守家は断絶。庶流の緒氏は戦国乱世を生き抜いたものの、備後一の宮は荒廃の一途を辿ることとなる。
 毛利氏により社領は削られ、福島正則により、広島城築城のため参道の大鳥居も持ち去られる始末である。その荒廃やいかばかりだったろう。
 受け継ぐ者たち

吉備津神社 拝殿

 しかし、慶安元年(1648)再び、歴史は動き出すこととなる。備後国一の宮として国中の崇敬を集めた神社の頽廃を憂えた水野勝成によって、できる限りの良材、技術をもって本殿、拝殿、神楽殿、大鳥居などが再建されたのである。
 鎌倉時代の『一遍上人絵伝』に描かれた本殿、拝殿などの社殿は、現在のものとほぼ同じで、現存の社殿は古くからの形式を伝えるものであるという。
 桜山四郎の放火をはじめ、長い年月の中で途絶えかけていた鎌倉時代からの吉備津神社の歴史が、この再建により後世に継がれたのである。現在、本殿は国の重要文化財となっている。
 盛衰を極めながら1200年時を紡いできた吉備津神社で、その年も2月3日に節分祭が行われ、詰めかけた参拝者は2000人という。
 鎌倉時代から伝わると言われている奇祭、ほら吹き神事も、これまでもずっと安泰で続いていたわけでもないであろう。実際、神事の行われていた「籠り堂」の老朽化に伴い、存続が危ぶまれた時期もあったが、1989年保存会が発足し、現在のステージでのほら吹きが実現したという。 
 歴史は継いでいく意志がなければ断ち切られてしまう。遺す人々がいてこそ地域の遺産となる。ここにも古の心を受け継ぐ人々がいた。



備陽史探訪の会
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