第44回     杉原盛重(2)

  
 長峰城の夢

山手橋から望む長峰城

 長峰城は、山手銀山城の出城として、その東に位置し芦田川など東方の見張りの役目を担ったと思われる山城である。まだ正式な調査がされておらず、知らぬ人の方が多いだろう。
 第三十九回の銀山城に続き、杉原匡信氏の案内により、こちらの山にも登ってみた。杉原氏は幼い頃に遊んだこの山を長峰城跡だと聞き及んでいたという。
 林道沿いの展望台の近く、細い下り道を進んでいくと、やがて送電線の鉄塔に辿りつく。この鉄塔のおかげで、その周囲が開けているのは、幸いといえばいいのか、皮肉と言うべきか。ここからは遠く福山の町並が眺望でき、西の方には銀山城跡のある山が確認できた。
 さらに藪漕ぎで進んでいくと、曲輪らしき平らな場所に到着。堀切や、櫓台跡もあるらしいが、藪と下草に覆われ、判然としない。が、歴史家の田口義之氏はここを長峰城跡と確信されたそうだ。
 長峰城のあった山は、杉原匡信氏の山であり、ゆくゆくは城跡を整備をして保存に努めたいということだった。とはいえ、個人ではなかなか大変なことであろう。山手銀山城と共に、後世に留めておく手はないものだろうか。
 正式な調査が待ち望まれるところである。
 三代目城主杉原盛重

長峰城への入口

 初代の山手銀山城主杉原匡信の跡を継いだ忠興は、天文七年大内義隆の命で神辺城を奪取、神辺城主となり、盛重が山手銀山城三代目城主を継ぐ。後に神辺城の四番家老として取り立てられ、そちらへ出仕することとなる。
 しかし、天文十二年(一五四二)、忠興は大内義隆から離反し、以後、神辺城は長い年月合戦場となる。天文十七年には、義隆の差し向けた陶隆房ら一万の軍に囲まれ、その時盛重は、一千の兵を率いて一番駆けしてきた吉川元春から見事に城を守りぬいた。盛重二十七歳、元春十九歳、二人の運命の出会いである。
 その年、決着はつかなかったが、翌年、わずか八百の兵を率いた平賀隆宗にあっけなく城を奪われ、五年に及ぶ神辺城の合戦は幕を閉じた。
 城主杉原忠興と盛重ら一族は出雲の尼子氏を頼って落ちていったのであるが、毛利元就の謀略によって尼子が分裂し弱体化するや否や、盛重らは毛利方についた。これにより弘治元年(一五五五)忠興は盛重と共に神辺城へ返り咲くことができた。
 以後、盛重の舞台は神辺城から山陰へと移り、銀山城・長峰城の麓に栄えた城下町一帯も何度かの山津波に襲われたせいか今は偲ぶ影もない。しかし、この地に盛重が生まれ育ったのは紛れもない史実であろう。銀山城、長峰城もその形跡をわずかながら伝えており、山手杉原氏の菩提寺である三宝寺は、その長い歴史を今なお脈々と紡ぎ続けている。




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