第43回     備後の農民一揆 (2)

  
 初めての備後一揆

相方城址より天王川原を望む

 新市町相方にある相方城跡は、標高一九〇メートルの城山にあり、今も残るその石垣に立てば、新市の町が眼下に一望できる。
 その景色の真ん中、神谷川が芦田川に合流する地点に広がる川原が天王川原、江戸時代の一揆のたびに農民たちが集結した場所である。特に有名な天明の一揆では、ここに六万人の農民が集まり、今に語り継がれる歴史の一片を担ったのである。
 天明の一揆が一揆史上に輝ける闘争として残っているのは、ひとりの犠牲者も出さずに全面的に農民側が勝利を得たことにある。その詳細については、回を追って紹介していきたい。
 備後に初めて農民一揆が起こったのは、享保二年(一七一七)二代阿部正福の時代である。その年凶作に見舞われ、平年の半分以下の収穫であったため、農民たちは減免を藩に訴えたのだが、藩の回答は作物が出来なければ銀価で代納せよという無茶苦茶なものであった。
 十一月に品治郡宮内村の源右ヱ門らが年貢減免の願を藩へ出し、これに倣って他の村々からも同じような動きが起こった。救済を願って天王川原に集まった六千人の農民たちは福山城を目指して進んだという。
 そして、享保三年の一月には福山城下を包囲し、藩の出方見守った。農民の蜂起に後手後手にまわった福山藩は、農民側の要求を受け入れ、一揆の指導者も詮議せずお構いなしとした。こうして、阿部時代に破られた貢租などの慣習は、水野時代のものに戻された。
 地方の水野と中央の阿部

天王川原南方より蛇円山を望む

 水野勝成は若い頃諸国を流浪し、農民たちの暮らしをつぶさに見聞してきた藩主であり、福山を愛した土着の城主でもあった。その水野時代に一度も起こってない一揆が、阿部時代に続発するようになる。
 全国的に凶作な年が多かったというのもあるが、阿部氏は幕府の役職にあり、江戸住まいが基本である。水野時代には江戸藩邸の家臣は五十人だったが、阿部時代には三五〇人を超え、それは福山に居た藩士とほぼ同数である。そして時代を経るに連れ、江戸詰めの家臣の数はさらに増えていく。それら莫大な経済的負担を担うのは、すべて国元の領民、農民であった。
 十年間に松平、阿部と二度も藩主が変わり、そのたび多くの費用がかかり農民に負担を強いられた上に、初代阿部正邦は、入封後それまでの年貢の三割増を命じた。
 それに加えての長雨、虫害、洪水、ひでり、冷夏などの災害による凶作では、農民たちはひとたまりもない。
 それでも正邦は藩政に積極的にかかわっていたのであるが、二代正福、三代正右は生涯福山の地を踏むことはなく、領民も顧みられることはなかった。
 享保の一揆によって、一旦は安堵された農民の暮らしであったが、宝暦三年、二度目の一揆が起こる。




備陽史探訪の会
バックナンバー HOME クラブTOPへ ▲PageTop