第39回      杉原盛重 (1)

  
 山に還るか銀山城

山手橋方面から望む山手銀山城

 桜の花が満開を迎える頃のことであった。同好の仲間に誘われ、福山市山手町にある銀山城跡に登ることになった。
 山手銀山城は、戦国時代の杉原氏の居城で、大河ドラマ『毛利元就』の頃には市の観光案内にも紹介されていたが、現在荒廃は進む一方で、登り口を見つけることもままならない。
 幸いこのたび杉原盛重の末裔である杉原匡信氏の案内で、登る事が可能となった。
 坂というより崖のような登り口に、ロープをかけていただいて登り始める。正規の登城ルートよりかなり東側の方からの登山であるが、道などなく、地図と小さな手掛かりを頼りに木立の間を藪をかきわけながら進んでいく。樹木は空まで覆い方位磁石のない身では、方向は全く定まらない。
 藪をわけ、あるいは迂回しながら、やっと東側の曲輪の石垣を発見した時は、思わず歓声があがった。木々に埋もれた石垣の六百年の歳月の深さは、感動的ですらあった。
 本丸跡らしき場所も木立と藪に覆われ見通しがききにくい、井戸や虎口らしき跡もあるが、少し歩けば藪にあたり、なかなか全貌を見渡すことができない。
 山手銀山城は、福山周辺で規模・構造とも屈指の山城遺跡であるというが、気軽に行ける場所ではない。山手の山中に六百年の宝物が眠っているようで、もったいないと思うのは私だけだろうか。

 智将 杉原盛重

道の端からロープをかけて登った

 府中八ツ尾山城に本拠を置く杉原惣領家、尾道の鷲尾山城の木梨杉原氏と、杉原氏は、石見銀山から尾道への銀山街道を抑えることで、戦国の世に次第に力をつけていった。
 山手銀山城は応永年間(一三九四~一四二八)に築城された標高二百五十メートルの山城で、鞆から府中に抜ける街道を抑える重要な位置にある。
 その山手銀山城主三代目の杉原盛重は、群雄割拠した戦国時代において、ひときわ異彩を放つ武将であった。
 勇猛でありながら、知略に長け、人心の機微を掴んだその様は福山開祖水野勝成を彷彿とさせる。盛重を知れば知るほど、その魅力的な人物像に興味はつきない。
 しかし、銀山城主から神辺城主になった後、後年は山陰の小鷹泉山城主として生を終えたため、その活躍の割には、備後での知名度は低いように思う。
 遠く伯耆の地において「伯州の神辺殿」と敬意をもって呼ばれた盛重を、山陰では今でも尾高城跡と共に多くの人が語り継いでいる。
 その智将の誉れ高い杉原盛重が生まれ育ったのは、紛れもなくここ備後なのである。その誇りを胸に盛重の名を語り継いでいくことは、地元の子どもたちの未来に一筋の新しい光を当てることになるのではないか。
 木梨杉原氏の本拠地、尾道の鷲尾山城跡は地元の人の手により手厚く保存されているときく。




備陽史探訪の会
バックナンバー HOME クラブTOPへ ▲PageTop 地図はこちらから