第38回      備後の農民一揆  (1)

  
誇るべき備後の遺産「福府義倉」

財団法人義倉社屋

 中央図書館の二階に義倉文庫のコーナーがあり、「義倉」という言葉を聞いたことがある人は少なからずいることと思う。しかし、これが全国に誇るべき福山の団体であるということを知る人はどれほどいるだろうか。
 義倉・社倉とは、日頃から一般の人たちが米などの穀物や金を出し合い備蓄し、飢饉等の災害時にそれを放出し被災者を救済する組織で、江戸時代末期に全国各地につくられた。
 しかし、福山藩の「福府義倉」が突出しているのは、豪農商の出資金を基に田畑を買い、それら「義倉田」を運用し自ら財産を増やしていった点である。そして、貸銀の利子収入と義倉田の小作米収入で、飢饉救済はもとより、様々な助成や文化教育活動なども行った。
 明治以後は、飢饉等の救済は政府により行われることになり、全国の義倉は解散・廃止となったが、「福府義倉」は民間出資の団体であったこともあり、飢饉救済事業以外の教育・文化事業を軸に活動を継続。義倉図書館、義倉女子専門学校などの運営を経て、現在「福祉」「教育」「殖産」の領域において各団体に助成金を交付するなどの活動を行っている。
 義倉は一般的に一村あるいは一郡の救済を目的としたものであるが、「福府義倉」は、福山藩全体を救漬対象としていた。まさに「諸国無類」の救済団体だ
ったのである。
 その全国的に類をみない義倉が、今も福山で二百年以上の変わらぬ歴史を紡ぎ続けている事を誇りに思う。

 輝ける闘争「天明の一揆」

河相周兵衛像

 深津村庄屋石井武右衛門が遺金銀六十貫目を千田村庄屋河相周兵衛に託した事から創立に至った「福府義倉」について、また回を改めて追ってみたいが、農民救済の問題が福山で真剣に取り上げられるようになった直接的原因は天明の一揆であると言われている。
 この一揆がまた史上稀な農民一揆だったのである。
 農民の団結力、すぐれた指導者、一人の犠牲者も出さずに勝ち取った勝利、そして自領だけでなく社会的な関心と注目を集めての成功など、その組織性や戦略は目を見張るものがある。
 そして、それは江戸時代の二千を越える一揆の中で唯一農民側が勝利した闘争であった。
 義倉も天明の一揆も、全国に誇るべき備後の歴史である。それらを今、改めて見直したいと思ったのは、領民が自ら考え、立ち上がり、藩を動かしたという点である。藩主の言いなりでも、藩に頼りきりでもなく、自らの意志と行動力と洞察力で歴史をつくっていったのである。
 現代の備後に住む人たちが、その歴史と共に先人の叡知と行動力を内に秘めているのだと信じつつ、このシリーズでは備後の農民一揆の歴史をひもといてみたいと思う。



義倉田跡にあった碑、現在義倉敷地内に移転

備陽史探訪の会
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