第36回     水野勝成の遺したもの (36)

  
 抱き沢瀉を見つけよう

法被に描かれた抱き沢瀉
 一年間、このコーナーでは「水野勝成の遺したもの」について紹介してきた。ともすれば、歴史的に価値あるものとして神社仏閣や名所・旧跡とカタチのあるものばかりに囚われがちだが、とんど祭りやはね踊りも勝成が奨励したからこそ、盛んになり、独自な形式を取りながら今に伝えられてきたと考えて差し支えないだろう。
 そして、様々な殖産産業、綿作りやイ草作り、それらもまた保護、奨励されたがゆえに、現代の地場産品として全国的に知られるものとなったといえる。なにより最大の遺産は遠浅の海の上に作った福山の町そのものである。そのため注意深く観察すれば、勝成公につながる痕跡はいくらでも出てくるのだ。
 歴史には興味がないから痕跡なんてわからないと言われる方には、ひとつ、とてもわかりやすい印がある。それは水野家の家紋、抱き沢瀉。
 沢瀉は水辺に生える水草の一種で、その葉が矢尻に似ていることから、勝ち草、勝軍草などとも呼ばれ武家に好まれた。
 水野家と縁の深い福山八幡宮の本殿大棟には三つ巴の社紋と並んで抱き沢瀉がつけられている。勝成公を祀った聰敏神社や水野家墓所にももちろんついている。
 その他にも新市の吉備津神社社殿の屋根、下岩成の光圓寺に保存されている鬼瓦、岩成の深草神社の鬼板や供物台、木之庄八幡神社の大棟や鬼瓦にも抱き沢瀉の紋がついている。
 そして私が思わず小躍りしたくなったのが、田尻のはねおどり保存会の子ども法被の模様に抱き沢瀉があしらわれていたことである。江戸時代ならば藩主の家紋を使用するなどとは無礼千万となるところだろうが、現代ならではのご愛嬌だ。勝成公なら家紋が民の繁栄と共にあることをさぞ喜んでいるに違いない。
 どこかで抱き沢瀉の家紋を見かけたら、ほんの少し水野勝成という人物に思いを馳せていただけたらと思う。

 歴史は私たちに託されている

深草神社(御幸町)の供物台の抱き沢瀉

 福山の町を作ったのは水野勝成であると書いたが、もちろん作りあげたのは町づくりに参加した領民すべてである。そして何より忘れてならないのは、彼らが遺したものは、それだけでは遺産とはならない。その価値を認め、伝える者がいてこそ遺産となるのである。
 備後にある数々の古刹や地元に伝わる祭りや芸能、そして古くから伝わる地場産業、そして福山の町、それらを遺産となし続けるかどうか、私たちひとりひとりに託されているのである。鞆の架橋問題、駅前の外堀遺構保存問題………歴史を刻む一足一足を疎かにしたくないものである。
 さて、水野勝成の遺したものシリーズは一旦ここで筆を置き、次回から「備後の遺産を訪ねて」シリーズとしてさまざまな遺されたものを訪ねていきたいと思う。



備陽史探訪の会
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