第35回     水野勝成の遺したもの (35)

  
 そうびんの乱れしかみを…

聰敏神社拝殿
 福山八幡宮の裏手に聰敏神社がある。水野勝成公を祀った神社で、二〇〇七年社殿の屋根の葺き替えが行われ、拝殿も整備され、福山開祖の神社にふさわしい化粧直しが施された。
 もとは、二代勝俊が勝成死後、徳霊社として城内に創祀したのであるが、水野家が改易となり、顧みられなくなっていた。享保五年(一七二〇)祖父が水野家家臣であった阿部家の医師馬屋原玄益らの尽力で八幡宮の敷地に再祀。明和元年(一七六四)より聰敏神社となる。
 しかしその後も阿部家の治世では荒廃は免れず、「そうびんの乱れしかみをゆはずして ばんこ頭を勇鷹神とは」という落首が詠まれた。霜鬢と聰敏神社をかけたもので、福山開祖である勝成公の神社を荒れたままにして、後釜である阿部家の神社ばかり祀りあげるとは……と阿部家を批判した当時の戯れ歌である。
 この歌の詠み手は諸説あるようだが、阿部家の者であろうと、旧水野家に連なる者であろうと、あるいは一領民であろうと、福山の地を創成した開祖であり善政を行った藩主と慕われていた水野勝成の遺徳を敬わずして、藩の土台が盤石とは言い難かろう。

 為政者としての水野勝成

聰敏神社本殿

 五代水野勝岑の夭逝で跡継ぎがなく改易されてしまったのは、勝成が備後に入封してから七十九年後の事である。その後の福山藩が辿る道を考えれば、その間は領民にとって最も穏やかな年月であったのかもしれない。
 勝成は、目付、横目など一切置かず、法度書、制度、条令も一件も出すことなく、しかも家中の者に誓約書を出させることもなかったのだが、国も家中もよく治まっていたという。高禄で召抱えると他家の者が交渉しても家臣は見向きもしなかった。岡山藩の池田光政は、勝成こそが良将だと語ったという。また江戸時代全国で三千二百十二件あった農民一揆が水野時代には一度もおこっていない。
 藩内で銀札を発行していたのだが、藩札は藩が改易になれば紙くずになるリスクがある。しかし、信用度の高い水野藩の銀札は三割程度引き下げられたようだが、すべて回収されたという。
 人心を掌握し、政治的にも経済的にもよく国を治めた勝成の方針が水野時代にずっと引き継がれていた成果であろう。
 福山藩水野家改易後、譜代の名門であるため、水野数馬に一万石を与え水野家の名跡を継がせ、後に結城藩一万八千石の領主となった。茨城県結城市には、十二代城主水野勝愛が勝成の遺徳を慕い、福山市の聰敏神社より勧請した聰敏神社がある。
 宗教と政治は別物である。しかし優れた為政者としての福山開祖水野勝成の施政を心に留めて、これからの福山のありかたを一考するのも意味深いのではないだろうか。



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