第33回     水野勝成の遺したもの (33)

  
 神谷治部と春日池公園

春日池

 新市町の南北に長く流れる神谷(かや)川。水野時代、土木普請の名奉行と謳われた神谷治部に因んだものだという。
 『福山史料』においては、「服部大池および能島長和の大池、府中の上にある芦田川の水はね、吉津市村の大溝等もこの治部が普請奉行となって工事したもので、百年を経てなお敗壊しない」と記されている。
 当シリーズ第十八回に服部大池について紹介したので、このたびは春日池について少し触れてみたい。
 春日池は、備後の三大池のひとつして、服部大池、瀬戸大池と並ぶ溜池であり、寛永十九年(一六四二)に勝成が計画し、神谷治部が築造したもので、以来、春日、蔵王、引野、手城地区の灌漑溜池として大きな役割を果たしてきた。
 昭和四十四年に施行された東部土地区画整理事業の一環として、十五万六千平方メートルの春日池公園が整備された。現在は、池の一部を埋め立て、ハナショウブやばらなど四季折々の花が咲く、市民の憩いの場となっている。
 寛永十九年に吉田新開が造成されるまで、現在の春日池の辺りはまだ海であった。ちょうど谷のようになっている地形を利用して溜池を造ることになったのである。その折り、周囲の田地を損なっても少しでも多量の貯水ができるようにと、水野勝重より神谷治部、小場兵左衛門に宛てた書状が残されている。
 勝成を支え福山を造った人々

公園から春日池を望む

 寛永の土木事業で彼の手でないものはないとまで言われる神谷治部。彼の設計技術や施工能力は抜群だったようであるが、『水野家五代記』には彼の普請にかける責任感と熱意を表す次のような逸話も残されている。
 まだ春日池ができてなかった時、市村から吉田村へ水路を通す工事にかかったが、市村の綱木の所で地面が高くなっており、岩石もあったため、人夫がこの場所は堀切は無理だと弁当を食べていた。治部はもとよりわかっていたことだと激怒し、ここで諦めるなら切腹すると言い、人夫の弁当を奪うと、居丈高に自ら太鼓を打ち鳴らして作業の音頭を取ったという。
 治部は二代勝俊の側近とされているが、登用したのは勝成であったろう。三百年を経てなお残る偉業の数々は、勝成ひとりの手柄ではない。人材を登用し、束ね、活かした勝成の手腕は多いに評価されるべきであるが、彼を支え福山の発展に尽力した多くの藩士たちに敬意をもち、誇りとして語り継いでいきたいものである。それはまた、備後の地を守り続けた農民ひとりひとりにも繋がってゆくだろう。
 春日池の工事には、農閑期に一日米二升五合の賃金で農民を就役させたという。一部埋め立ててもなお広大なこの池の穏やかな水面を眺めながら、活き活きと溜池づくりに励む農民たちの姿に思いを馳せたい。



備陽史探訪の会
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