第32回     水野勝成の遺したもの (32)

  
 草戸千軒より栄えた藤尾の村

藤尾銀山跡の看板

 国内の鉱山といえば、佐渡の金山、生野の銀山などが有名であるが、二〇〇七年六月に石見銀山が世界遺産に登録されて、一躍脚光を浴びている。
 しかし、国内の鉱山跡はこればかりではない。石見銀山は毛利氏と尼子氏による収奪戦が激しく行われていたが、戦国時代、軍資金調達のため各武将は領内の鉱山開発を積極的に行っていた。それこそ国内に無数の鉱山跡が点在しているのである。
 新市の北部に藤尾という地区がある。神谷川に沿って二十六号線を北上していくと、父尾川に沿って流れる四〇〇号線へと分岐する。その細い道を上流に辿っていくと、父尾の小さな集落に行き当たる。
 ここは、文永三年(一二六六)には四五〇〇戸の家が建ち並び、「草戸千軒、父尾に負けた…」と謳われたほど、金山(かなやま)で栄えた集落であった。しかし、寛正二年(一四六一)に山崩れで金山は埋没し、翌年は大火で町は焼失した。芦田川に水没した草戸千軒とは異り、ここには今でも日々生活を紡いでいる人々はいるが、一万人を超えたであろう中世の面影を偲ぶのは難しい。
 勝成の鉱山開発

藤尾銀山標高400mの坑道入口(5年後に訪れて撮影したもの)

 戦国時代は終わったとはいえ、藩財政のため水野勝成も鉱山開発は意欲的に行った。服部銅山、松永本郷銅山、三谷銀山など多数の鉱山が開発されたが、室町時代に崩落と大火で一度は廃絶されていた父尾の鉱山もまた再開発しようとした。
 寛永十九年、二十年と勝成や勝重から神谷治部と小場兵左衛門に宛てた父尾銀山の開発に関する書状が残されている。
 ひとつには、鉱山には特有の作法があって、あまり事細かに監督すると服従しないので、万事心得てあたるようにというものや、昔の鉱穴は掘ってみてかとか、鉱脈はどうなっていたか、など子細なやりとりがされている。そして寛永二十年には、坑道が完成したことを喜んでいる。しかし、、この銀山の採掘は思ったほど成果があがらず、やがて中止されるに至った。
 その後時を経て再開発されてから戦前まで採掘されていたといわれるこの藤尾の鉱山には、標高約四〇〇メートルに「千人塚」と呼ばれている入り口をもつ坑道があるそうだ、。
 しかし今現在、鉱山入口を示す「藤尾銀山跡」の傾きかけた看板があるばかりである。林道から鉱山入口へ辿り着く事は可能だが、案内人無しでは難しい。
 世界遺産である石見銀山はもちろん観るべき価値のものであろうが、地元にもかつて草戸千軒よりも栄えた集落と、その繁栄をもたらした金山があったことを、伝えていってもいいのではないだろうか。せっかく設置された看板が傾き風化しているのを見るには忍びない。



坑道入口部分の近景

備陽史探訪の会
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