第31回     水野勝成の遺したもの (31)

  
 ヒーローの足跡

新しい護国神社の参道

 奈良の奥山をドライブしていた時だった。谷川の集落で休憩していると、空海が衣を洗って干したという説明板がある岩があった。若い修行時代のものである。信じる信じないはその人の胸ひとつというところだろう。真偽は別にして、いかにも空海が来ていそうな土地の雰囲気は楽しめたものだ。
 空海と同じように剣豪宮本武蔵の名を知らぬ人もいないだろう。江戸時代からすでに有名人であった彼は、年を経て今や国民的ヒーローである。異説異伝諸説あるようで、空海同様に各地に武蔵にまつわる伝承がある。福山も例外ではない。
 護国神社を福山城側の参道(阿部神社参道)から登ると、その中途にひっそりと、武蔵が腰かけた岩というのがある。なるほど平らでいかにも腰掛けやすそうではあるが、事情を知らねば眉唾ものの一品とでも言えようか。
 しかし水野家福山藩は、宮本武蔵とは縁深く、この伝承もあながち嘘とは言えないようなのだ。しかし阿部氏を祭った神社になぜ水野家ゆかりの石が鎮座しているか。
 人脈も能力なり

宮本武蔵腰掛石

 元和元年、大坂夏の陣で、武蔵は勝成軍に属し、陣場借りをしている。その縁あってか、武蔵は寛永年間に福山を訪れている。当時、武蔵はすでに一流の剣豪として名を馳せていた。
 来福中に饗応を受けたのが、陣中共に戦った、勝成の従兄弟で家老の中山将監の家だった。その時、腰掛けたのがこの石である。水野家断絶後、将監の屋敷は阿部氏の家老のものとなり明治維新の時、阿部神社(現在の護国神社)に寄進された。
 また、武蔵の養子、三木之助は、勝成の流浪時代に共に戦場で生死を共にした中川志摩之介の三男である。大坂夏の陣で武蔵と共に戦ったとされている。
 水野勝成とは、陣中どういう交流があったか定かでないが、わけ隔てなく能力ある人材を登用したり、家臣にはひとかたならぬ気配りをほどこす、豪胆にして繊細な勝成らしい交流術がそこにあったのだろう。
 勝成が築城の際、自ら縄張りしたと伝えられているが、武蔵の影響があったのではないかと考察されている。武蔵の家は新免流数理の「糸曲尺」という縄張の幾何学を伝承しているのだ。
 「武蔵の腰掛石」は平らな何の変哲のない石である。どう受け止めるかは人それぞれであろうが、その由緒と共に人と人の縁の大切さを感じるには充分な存在感を放っている。
 松永の塩田を開発した本庄重政の登用もそうであるが、勝成は、ひと癖もふた癖もありそうな人材を目ざとく発掘し、その能力を上手に活用している。何か事業を成し遂げようと思えば、ネットワーク作りは必須である。勝成には到底及ばないまでも、その交流術、少しでも見習いたいと思う。




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