第30回     水野勝成の遺したもの (30)

  
 町の真ん中にある土手

千軒土手のあった国道

 市内の国道二号線を東方面に走っていると王子町を越えたあたりから、真一直線の部分がある。片側二車線ながら、はるかかなたまで抜けた開放感はかなりのものだ。
 ここの交差点の名前が、千間土手西、千間土手中、千間土手東。福山市の真ん中を横断している二号線に、なぜ土手の表示が?よくよく考えれば、港を表す津がつく深津や吉津の名前がなぜ、あのような平野部につけられているのか。
 当時の海岸線は木之庄から、吉津、奈良津、市村、吉田から浦上(春日池あたり)までであり、現在の市街地の片鱗すらなかったのである。つまり今に残る地名は昔の地形を推察することができる価値ある名前なのだ。
 水野勝成が福山に入封してきて最初に着手したのが新地開発であり、これは勝成、勝俊二代にわたり、莫大な藩費をかけた一大事業であった。福山城のたつ常興寺山から箕島まで、遠浅の海をひたすら埋め立てていったのだ。
 干拓工事はまず、陸部から海の方に石積みの防波堤を築いていく潮止め工事を行なう。最終的に干潮時に干潟を防波堤で囲んでそこに土を入れ、地面を作っていく。
 千間土手は、引野梶尾山から深津王子山を堤防で結んだ深津沖新田(現在の東深津町、明神町あたり)を造成するために築き上げられた防波堤である。一年以上日々三千人もの人が携わった難工事であったという。
 この土手の北側に、現在の国道が通っているのだが、歩道に立って土手の長さを眺めれば、いかに人出が費やされたか納得がいこうものである。

 開拓史を忘れぬ人々がいる

塩崎神社

 この深津沖新田開発の困難さを象徴するのが、深津にある塩崎神社である。
 正保二年、潮止め工事は完成間近までこぎつげたのだが、潮によりたびたび石積みが崩壊し、干潟は浸水した。さすがの勝成も新地開発を諦めようとしていた時、深津の庄屋、藤井庄五郎が、潮崎大明神に祈願されてはと提案。当時、工事の指揮を取っていた勝成は、深津に社を建て祈願したところ、その後堤防は決壊することなく、正保四年(一六四七)ようやく土手は完成した。
 塩崎神社は、現在、民家の並ぶ古き町筋の中にひっそりとした佇まいをみせている。社務所に人影はない。
 しかし、通りすがりの男性が車から下り、慣れた様子で社殿に参ってさっと去って行く姿や、行き届いた境内の様子を見るれば、地元の人々に今なお厚く信仰されているのは一目瞭然である。
 十月になると、地域住民がやっこや侍姿になる「深津大名行列」がこの塩崎神社から出発する。長さ四メートルほどの毛やりやかごを担いだやっこが長い行列を組み、約四キロを練り歩くこの行事、新田開拓を進めた水野勝成を讚え、豊作を願って始まったと言われている。




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