第28回     水野勝成の遺したもの (28)

  
 幻の名陶「姫谷焼」

姫谷焼窯跡

 加茂町北端部、国道一八二号線沿い右手の山中に、県の史跡である「姫谷焼窯跡」は存在する。
 江戸時代前期、陶工市右衛門によって開かれた窯場であり、古九谷、初期伊万里とともに日本の色絵三古窯のひとつとして名高い。
 白磁に散る紅のもみじ、あでやかな一輪の大牡丹、上品で洗練された飛雁山水の図柄、余白をたっぷり取った構図は清楚で優雅な趣を持つ。現存するものはいずれも精妙な技術と筆致をもつ逸品ばかり。白磁に絵付した色絵磁器は、好事家の垂涎の的だそうだ。
 京の陶工が公卿の姫と恋におち、駆け落ちして姫谷に窯を開いたのだとか、見事な朱色を放つ美しい色絵皿は人の血で描いているのだとか、謎に包まれた姫谷焼の伝説は多い。
 実際、姫谷焼の焼かれた時代を裏付ける史料は皆無であり、残された品も少なく、長い間、窯跡すらわからなかったが、近年の調査で少しずつ明らかになってきた。 
 昭和十年に姫谷焼研究家の桑田勝三氏が陶工の墓と伝えられる墓碑の下を発掘して上絵窯らしい跡を発見。次いで昭和十一年の発掘調査で多量の陶磁破片を採集。この地に窯が存在したことを立証し、付近一帯が県史跡に指定された。
 その後昭和四十四年にやっと窯の一部が発見され、五十二・五十三年の発掘調査により、新旧二基の窯が上下に重なった状態で確認された。西に張り出す斜面を利用して築かれており、いずれも階段状連房式登窯である。両窯の年代差はほとんどなく、操業期間は十年~二十年と極めて短い。

 深まる姫谷焼の謎

陶工・市右衛門の墓標

 文化年間に書かれた『西備名区』によると、水野勝成が備後地方を放浪していた頃、姫谷焼と出会い、しばらくここに逗留して皿を焼いていた。そして勝成が備後に入封してから、姫谷焼の援助したが、文化時代にはすでに世に稀になったとある。
 姫谷焼は、茶碗や香炉など各種高級な飲食器や茶道具が製出されたことより藩窯的な性格であったと考えられているが、現在、一六六〇年代水野時代後期から製作されたことが判明している。これでは、水野勝成と姫谷焼とのつながりはなくなってしまう。
 もし、勝成がこの地で本当に焼き物を焼いていたとしたら、幻と言われる白磁の姫谷焼ではなかったはずだし、現在窯跡のある場所以外で焼いていたことになる。勝成と姫谷焼とのかかわりは謎めいたままであるが、この伝承が幾百年の歳月を越えて幻の姫谷焼を現在に蘇らせたと言っては過言であろうか。
 現在、窯跡には市右衛門のものとされる墓標がひっそりと建っているのみで、訪れる人はほとんどいない。しかし、窯跡近くの喫茶店「姫谷」には時折、姫谷焼に魅せられた人々がこの地を訪うと聞いた。




備陽史探訪の会
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