第27回     水野勝成の遺したもの (27)

  
 松永の地ここにはじまる

承天寺にある本荘重政の墓(県史跡)

 羽原川が松永湾に注ぐその東岸、小高い山に建つ承天寺。その境内南側に松永の地をはるかかなたまで見渡すかのようにその墓はある。
 本荘重政、水野勝成の殖産興業の志を継ぎ、松永の地を干拓し、製塩事業の礎を築いた福山藩士である。
 明暦二年(一六五六)の柳津新涯から始まり、次々と新涯地を造成し、ついに寛文七年(一六六七)塩田四十八浜が完成、新涯奉行となった重政は、松寿永年にちなみこの地を松永と命名した。塩田の町、松永の誕生である。
 重政は松永に居住し、享年七十で没するまで、新田開発と松永塩田の拡張に務めた。
 八角形の一風変わった墓碑に刻まれた戒名は「如風院殿憐情露石居士」「風の如くこの世を吹き抜けたが、どうか露にされされるこの墓石を見て、時々は自分のことを思いだしてほしい」という彼の心情を吐露したものであると言われている。
 松永の地を造った本荘重政の生涯はまた、晩年福山の町づくりに心血注いだ水野勝成のそれに似ている。

 本荘重政の像が語るもの

松永上之町共同井戸(市史跡)

 重政の父は佐々成政に仕えていたが、改易後牢人となり、尾張に居た時、水野勝成に拾われ、二百五十石で普請奉行となった。しかし長男重政は、幼少より賢く武芸にも秀でていたので家禄に満足できず、家督を弟に譲り家を飛びだした。諸国を放浪しながら、軍学と砲術を学び、それらを活かし仕官の道を探そうとしたが戦乱の終わった時代に、なかなか道は開けない。
 島原の乱での活躍で翌年岡山藩に召されたが、十年ほどするとそこでの待遇が気に入らなくなった重政は赤穂藩に再仕官しようとしたのである。しかしそれが岡山藩主の逆鱗に触れ、奉公構えの書状を各藩に送った。これにより重政は赤穂藩どころかどこの藩にも仕官できなくなってしまった。
 播州赤穂に身を潜めていたが汲々として江戸に出ようとしていた承応三年(一六五四)、福山藩に召出された。重政四十七歳、時は二代勝俊の治世、勝成没後二年のことである。
 水野藩もさすがに奉公構えの出されている重政を召し抱えることはできず、彼の息子重尚(十歳)に五百石が与えられた。
 幾星霜を経ての帰郷であるが、家臣への情に厚く、人材登用を積極的に行なった水野勝成の治政がそのまま受け継がれたような重政の復帰である。
 彼もまたそれに応えるかのように、見事に勝成の遺志を継ぎ結実させてみせた。
 今、重政の造った塩田は跡形もなくなってしまったが、往時を偲ばせる共同井戸が羽原川沿いに残されており、昭和五十一年には元松永塩田関係者の尽力により松永駅南面に本荘重政の像も建てられた。
 今後、この思いを継いでいくのは誰であろうか。松永に住むひとりひとりの人であってほしいと思う。




備陽史探訪の会
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