第26回     水野勝成の遺したもの (26)

  
 緑の風わたる風景

熊野町のイ草田(2007年撮影)

 高校時代、松永駅より学校まで、田圃の中のくねった一本道を通学していた。どんなふうな風景が広がっていたのか、記憶はあまりに遠すぎて思い出せない。しかし、焼けつくような真夏の日のある光景だけは、今も鮮やかに脳裏に蘇ってくる。
 セメントに固められた真っ白の道の眩しいほどの照り返し。歩くほどに噴き出すような汗。周りは一面の緑。ツンツンと突き立った葉先が風に揺れ、青い匂いがむせかえる。部活やクラスのこと、将来の夢……とりとめもない話をしながら、その道を通学した。
 ある日、地元の子同級生が「これ、何か知ってる?」と尋ねた。「イ草でしょ」「よう知っとるなあ」ちょっと驚いたように友人は応えると、嬉しそうに笑った。そして水田の境界あたりを指さすと「稲と間違える人が多いけど、色の濃さが違うからすぐわかるんじゃ」
 稲よりずっと濃く深い緑色が私たちの前に広がっていた。
 備後の畳表は有名な特産品であることは既知であったが、この時の目の前の圧倒的な存在感と友人の誇らしげの笑顔に、私は備後の藺草の何たるかを実感した。
 備後の藺草の歴史は古い。室町時代には備後表は各地に出回っており、安土桃山時代には、山南の長谷川新右衛門が中継ぎによる良質な畳表を考案。その後福島正則が畳表の選別基準を定め、質のよい備後表を量産。幕府に三千枚の畳表を献納している。

 伝統産業はどこへゆく

さまざまなイ草加工品

 福山市には近年まで藺町(いまち)という町名が存在した。国道二号線から南本通と称されていたあたりに、藺草を売買する商家が連なっていたことから称されるようになった。
 もともと藺草の売買は神島の市で取引されていたのを、水野勝成が福山に入封し、城下町を建設するにあたり、市場商人をまるごと城下に招き入れたことに始まる。
 勝成は、神島商人に藺草売買の独占権を与えることで畳表の品質の安定化を図り、また、九カ条の定法を定めるなどして、畳表の品質を高めると共に、藺草産業を手厚く保護した。
 ひとつは藺草栽培に無利子で金を貸す制度を設けたのだ。肥料となる藤草を買う名目で元銀を三月に貸し、十二月に無利子で返済させる。また、麻子銀といい、特に上質な献上用畳表をつくる者には、さらに無利子で金を貸し付けた。
 現代においても、備後表は、艶があり、脱色が少なく、耐久性に優れた最高級品として全国に知られている。藩の施策も大きく影響しただろうが、備後表を伝統作業として今日まで守り続けたのは、農民の日々の努力と職人の技術の研鑽の賜物だったに違いない。
 昭和三十年代以降、生活様式の変化により、生産量は激減した。かつての通学路には住宅が建ち並び、藺草田の面影はなくなっていた。
 しかも、全国的にもイ草生産の第一人者であった熊野町の広川宏志さんが2010年11月に亡くなられた。広川さんは、備後表の伝統を守るため、良質のイ草の生産に尽力されていた。その後、生産者の減少に歯止めがかからず、2012年の生産農家は3戸になる見通しだ。福山市内での生産は神辺町の農業生産法人のみである。かつて藩の主力産業であり、全国的に名を馳せた「備後表」が、今や風前の灯である。今後、備後表の伝統はどう守っていけばよいのだろうか。 




備陽史探訪の会
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