第24回     水野勝成の遺したもの (24)

  
 福山の水がめ、どんどん池

福山の水かめ、どんどん池
 風がそよそよと湖面を吹きわたり、白鳥がゆったりと太鼓橋の下を泳いでいく。そぞろ歩く親子連れ……。蓮池公園は、今やウォーキングロードとして人気スポットのようである。
 しかし、平成七年に公園として整備される前は、だだ広い溜池で、どんどん池の名前で親しまれていた。江戸から明治まで城下の人々に飲料水を供給し続けたこの池は、福山の生命線ともいえる大切な池であった。
 元和五年(1619)、芦田川のデルタ地帯に福山の町を造成するにあたり、大雨のたびに多量の土砂を吐き出すこの暴れ川の流れをどう導くか大きな問題であった。
 そこで勝成は、城の北側の防御力を高めるために、芦田川を艮鼻で分流し、城のある常興寺山と現在の八幡宮のある丘との間を切り抜いて、ここに本流を通すことにした。
 しかし、元和六年、備後地方を暴風雨が襲い芦田川が決壊。造成中の城下は水浸しとなり、築城中の石垣も崩壊するという甚大な被害を被った。勝成はじめ、土木工事に携わった人々や新開地を夢見てやってきた人々はいかほどの失意を味わったことだろう。
 しかし、福山開府の計画は頓挫することはなかった。

 諦めない精神

美しいどんどん池に遊ぶ白鳥の群れ

 当初の造成計画を大幅に変更し、艮の鼻から野上、五本松に至るまで土手を築きあげ、本流を草戸の方に向けて流すという新しい構想のもと、大規模な芦田川の護岸工事を行なったのである。この堤防工事は、かなりの難事業であったという。
 しかも、堤防工事、干拓事業、築城とすべて同時進行で行われたのだ。毎日三〇〇〇人以上の人が働き続けたという。
 その上、洪水によって壊れた神社仏閣の補修工事も同時に行なった。修理は後回しにという家臣の進言も、勝成は神社仏閣が荒廃すると人心も荒廃すると言い、決しておろそかにはしなかった。
 絶望的とも言える窮地にあって、さっと頭を切り変えて新しい構想を打ちだし、迅速な対応で事を進めていく。目先のことばかりに捕われず、人心の掌握まで気配りをする。為政者として優れた才能を有していた勝成ならではの施策であろう。
 しかし彼に従い、それらすべてに応えた人々のパワーの強大さには感嘆せざるを得ない。何が彼らをそこまで駆り立てたのだろうか。憶測にすぎないが、彼らは決して命じられ嫌々夫役をこなしたのではないと思う。自分たちが町を守り作りあげるのだという強烈な自負があったからこそである。
 その思いは、芦田川に堤防を築き、城下を造成し、福山城を完成させ、支流となった吉津川に福山の水がめとなるどんどん池を誕生させた。
 蓮池公園ののびやかな景色に目を細めつつ、さて、今の私たちに、自分たちが町を守り作りあげるのだという意識がいかほどあるだろうかと、自問してみたくなった。

   

備陽史探訪の会
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