第22回     水野勝成の遺したもの (22)

  
 歴史の町、田尻

高島小学校の御船入池跡の碑

 田尻は鞆ほど観光化されてはいないが、鞆と同じく歴史のある土地である。古墳や神武天皇ゆかりの地など古い時代の史跡や、県の無形民族文化財に指定されている「はねおどり」や神楽。福山開府よりはるか昔より歴史を紡いできた。
 そしてこの地にもやはり水野勝成の足跡は残されている。
 勝成入封当時は中・小型船が主流であったが、福山城築城による緒物の輸送などで次第に大型船が必要となってきた。そこで田尻の樟の木で大転輪丸という御召船を作ったのだが、あまりに大きく、福山の入江に入ることができず、田尻に新しく御舟入を造ったのだ。
 大転輪丸は勝成が寛永十五年の島原の乱に出征する時は御座船とし、また歴代藩主は参勤交代の折り瀬戸内海をこの船で航行した。そのたび、田尻村の若者が船旅の無事を祈り、「はねおどり」を踊ったそうだ。
 この御船入は、水野家断絶後は池として残っていたが、昭和四七年埋め立てられ、現在、高島幼稚園となっている。幼稚園の敷地内に「御船入池跡」の碑がある。また、大転輪丸をつないだもやい石は鎮守の森の西下に移されている。

 勝成の風呂跡

風呂ケ鼻 水野勝成の風呂鉢 
※風呂鉢には干潮時しか行けません。

 船旅の際ここから出港した勝成であるが、それ以外にもたびたびここを訪れたと思われる跡がある。
 勝成の風呂跡である。ご存知の方はどれぐらいいるだろうか。文化財として遺されているわけでもなく、人々の暮らしに継がれている何かがあるわけでもないが、生身の勝成の人間らしさが垣間見ることができるような気がする。
 干潮時、風呂が鼻を入江伝いに海の方に進むと、崖下に大きな窪みのような洞穴がある。これが水野勝成の風呂跡である。晩年、疝を患っていた勝成は、ここに唐風呂を作り治療したと言われている。石を焼きあたためて、海水を注ぎ、その湯気に体を当て汗を流したという。
 うっかり見過ごしてしまいそうな窪みであるが、岩石を削ったたがねの跡や、黒く焼けた岩肌、仕切りの柱穴、梁穴が残る。どういう構造になっていたのか想像するしかないが、さぞ立派なサウナ風呂ではなかっただろうか。
 岩風呂は江戸時代、瀬戸内沿岸地方にいくつかあったが、忠海や伊予の桜井の方では今でも岩風呂が利用されている。
 当時、風呂が鼻の崖上に祀られた祠が風呂神社である。その南の平地は勝成の寓居跡とも言われている。実際この地に立ってみると、彼がこの風景を愛でたあろうことは充分納得がいく。
 訪れる人が少なくなったせいなのかどうか、石燈篭の近くにあった風呂が鼻の説明板もなくなっていたが、地元の古くから住む人は、今でも風呂跡の場所を知っていた。福山の歴史の一端として、伝え継いでいってほしいと願う。

   

備陽史探訪の会
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