第20回     水野勝成の遺したもの (20)

  
 幽玄の光に導かれ知った歴史

福山八幡宮南の吉津川

 ずいぶん古い話になるが、福山市北吉津町の会社に勤めていた頃のことである。夜の帳がまさに下りようとする頃、川沿いにはなぜか多くの人影。みな川を覗き込んでいる。何をしているのだろうかと不審に思っていると「あ!」と小さな叫び声。思わず川をのぞきこむ。
 川面に、ほんのり黄色の光が明滅しながら、ふわりふわりと舞っていた。蛍である。町中で蛍が見られるとは思いもしなかったので、とても印象的だった。
 当時、その川にどのような由来があるかなどと考えもしなかったが、石垣で囲われたその川の底にはいつも澄んだ水が緩やかに流れていたように思う。春の陽射しの中では、めだかの群れが一斉に方向を変え、秋の光を浴びてあめんぼがすいすいと水面を移動する。
 そういう小川が北吉津の方に多くあり、季節ごとのささやかな表情の移ろいに、なんとはなく気持ちの安らぎを感じさせてくれた。
 その川もまた、水野勝成の遺したものだった。
 全国に誇れる福山水道

福山妙法寺前の取水口

 福山の城下町は遠浅の海を干拓して作った町である。地面を掘っても、塩水しか出ない。場所の限られる芦田川の伏流水では城下全体はまかなえない。飲料水の確保は、城下町づくりの重要課題のひとつであった。
 福山の上水道設備は、神田上水に次ぐ二番目の歴史をもつ(一説には五番目)と言われており、また神田水道、福山水道、赤穂水道を日本三大水道とする説もある。いずれにせよ、福山の上水道設備が、江戸時代有数の誇れる歴史と規模をもつものであったのは確かなようだ。
 城下に張りめぐらされた上水道の源は、貯水池として造られた蓮池(どんどん池)で、ここから両側を石垣で囲んだ幹線を城下に引き、その各所に貫洞が設け、そこから各戸に木管、土管、竹管等で引水した。
 後に、勝成がいかにこの水道を大切に思っていたかを伝える逸話も残されている。勝成の労苦と希望が込められた福山水道は、明治時代まで活用され続け、その一部は終戦当時まで使用されていたという。
 それほど深く長く人々に親しまれた水道も、今では吉津幹線界隈でしか見ることはない。それも年を経るごとに整備化が進み、妙政寺近くに残る取水口跡がわずかに当時の面影を留めているばかりだ。市中の水道においては、すでにずっと以前、時の流れと共に土中深く葬り去られたようである。
 昔我が家にも井戸があった。水嵩はそうなかったけれど、夏になればスイカを丸ごと冷やし、庭木の水やりも井戸から汲み上げた水を使った。井戸端ではよく今は亡き祖父が、シュッシュと包丁を研ぐ姿が見られた。水野時代の水道から引かれた井戸だったのだろうか。それも三十年以上も前に埋めてしまい、今では確かめる術もなく、私の記憶の中に静かに眠っているだけである。福山水道に対する誇りと共に……。 

   

備陽史探訪の会
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