第18回     水野勝成の遺したもの (18)

  
 水を湛える田の美しさ

服部大池から望む田んぼの風景
(この写真は春の風景で水が張っていない風景)

 冬の間静かに眠りについていた田圃も、春が深まる頃には活気を呈してくる。黒い土が掘り返され、整地され、畔ができ、梅雨時になれば、いっせいに水が張られる。そして、梅雨の晴れ間に鏡のような水田に映りこんだ空と白い雲は、心を明るくしてくれる。
 とはいえ、生産者の方々のご苦労は計り知れず、水田はこれから始まる大仕事の序曲なようなもので、決してのんびりとしたものではないだろう。
 そしてまた、古来より、領主たちは生産量をあげるためにどれだけ心を砕いてきたことだろう。
 福山の城下は干潟を干拓して作られた土地だと述べてきたが、これらの土地は当初塩分を多く含み稲作は不適当であった。そのため、中津原から森脇にかけての土地は川の氾濫によりたびたび水没する湿地帯であったが、芦田川に堤防が築かれたことにより、水田と化していった。そしてその後の大規模な芦田川の護岸工事により、流域は大穀倉地帯となっていったのである。
 稲作は水田というだけあって、多量の水が必要であるが、備後地方は年間降水量が少なく、干ばつに悩まされることが多かった。日照りが続くと、渇水の危機が訪れることが多く、昼間の断水がしばらく続いた時期があったのは記憶に新しい。現代においてさえ、そうである。江戸時代、溜池は必須であった。

 ため池が時を越えて映すもの

服部大池

 水野時代、新開と治水工事は大きな柱であった。いつの時代も土地を確保し、人を増やし、生産力を高めるのが治世者の課題であったが、水野勝成の先を見通す眼力は目を見張るばかりだ。
 芦田川の護岸工事により、福田沖新涯ができたことを国元から知らされた上京中の勝俊は、ただちに服部大池の築造着手を命じたという書状が残されている。
 寛永二十年工事着工の指令を出したのは二代勝俊であったが、寛永七年勝成の代にすでに実地測量を行なっている。福山城入城からわずか八年後のことである。当時から勝成の頭の中には、芦田川治水工事に伴う大穀倉地帯構想がしっかりと描かれていたのだろうか。
 服部の大池は領内一の規模を誇り、築造には二百四十カ村の住人が総出で二年の歳月を費やした難事業であったという。これにより下流の二十カ村が潤ったそうだ。今なお近田・法成寺・万能倉・岩成・御幸の方の田の水源となっている。
 服部大池は、それより以前にできた瀬戸池、春日池と共に、備後三大池と呼ばれ、いずれも神谷治部が総奉行と伝えられている。
 これらの溜池は、いずれも当時の面影を残したまま、その地にある。地域の人たちの手で整備され、活かされ続けているその湖面に映る空の色は、どこまでも澄んでいて、希望に満ちているように思える。

   

備陽史探訪の会
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