第17回     水野勝成の遺したもの (17)

  
 ひっそりと眠る勝成公

水野公園の水野勝成墓所

 若葉が萌え出でる新緑の季節がやってきた。水野公園を見守るように囲んでいる大樹の緑も目に鮮やかで、子どもたちやお年寄りの声もますます弾んでいるように感じられる。若松町東十番ガード北西にある水野公園は、付近の住民の憩いの場となっている。
 若い頃は乱暴な荒武者で鳴らした水野勝成も、晩年は一から創りあげた福山のまちづくりにすべてを傾けた良き為政者であった。最後まで福山の町を人を慈しみ、未来を描きながら、一六五一年三月十五日(新暦五月四日)、八十八歳の生涯を全うした。この日、武士も町人も農民も彼の死を嘆き悲しんだという。それほど臣下や領民に慕われた勝成は、現在、水野公園西側の墓所にひっそりと眠っている。
 元は、水野家の菩提寺賢忠寺の境内であったが、昭和三十二年の都市計画で分断された。その折りに、西向きに建っていた勝成の墓は現在の場所に南向きに移された。
 勇壮なものを好んだ勝成らしい高さ五メートルを越える巨大な五輪塔であるが、墓碑移転の際に確認された副葬品は十万石の君主だったとは思えないほど質素だったそうだ。

 人心の機微を掴む統率者

菩提寺賢忠寺

 水野勝成の武将としての功績は現在多くの方が著されているが、古くは勝成の逸話をおさめた『宗休様御出話』という史料が残されている。
 ひとつには、家中の軍功のある者や、古くから仕えている家臣の病が重いと聞くと、勝成はその家まで見舞いに行き、みずから薬を与えたという。
 また、家中の者は、安芸や京、大阪、伊勢へは御暇願を出さずとも、老中へ届け出るだけで自由に遊覧できた。帰ると、勝成に土産を差しだし、世間話をした。勝成はその者に、無事であったかとか、旅の様子など楽しく聞くのだが、その際自分の側近衆も家中も差別なく待遇したという。若い頃の自らの放浪を懐かしむような、温かい目線であったことだろう。
 ある藩士が事情があって、紀州徳川家に仕官し、紀州から照会があった折り、勝成は「福山藩では望み通りの知行がやれなかった。しかし召し上げれば、役に立つ者である」と往信した。他の藩に仕官する者にもそうであった。武士に奉公構え(他の藩に仕官できないようにすること)は無理な仕置きである。主将の道には慈悲に欠けてはならないと言っていたという。自らが奉公構えを出され苦労した経験が、見事に活かされている。
 このような数々の逸話は、勝成がいかに家臣や領民にとって良き統率者であったかを語っている。豪胆にして繊細、勇猛果敢な武将にして有能な為政者、そしてその人間味あふれた人物像が浮き彫りになればなるほど、彼の虜になってしまう人は現代においても多くいる。
 分断された南側に今も建つ賢忠寺には、勝成の甲冑や肖像画、頭髪、茶碗、砂時計など多くの遺品が所蔵されている。
 水野勝成の功績や人柄と共に、広く公開されればと願う。

   

勝成墓所境内の石碑

備陽史探訪の会
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