第15回     水野勝成の遺したもの (15)

  
 興隆を極めた俳諧連歌

明泉寺 (福山市駅家町)

 調べたことはないが、国内の俳句人口は、かなりの数に上るだろう。新聞・雑誌、投稿俳句はいたるところに見られる。五・七・五の音感が日本人に合っているのだろうか。
 しかし、俳句は江戸時代からの文芸で、古くは和歌がはじまりである。その和歌から発展したものに連歌がある。
 連歌は、五・七・五(長句)に、別の読み手が七・七(短句)を付け、さらに別の人が五・七・五を詠み連ね、百句になるまで長句・短句を交互に連ねていく、変化と即興性に富む文芸である。
 連歌の会は、茶の湯と同じく上流階級の社交の場とされ、鎌倉時代から江戸時代中期にかけて、和歌を凌ぐ勢いで流行したそうだ。
 鬼日向と恐れられた荒武者水野勝成だが、多くの戦国武将がそうであったように、学問・文芸にもひとかたならぬ素養があった。能への傾倒はシリーズ第三回目に触れたが、連歌や和歌もよく嗜み、自ら作歌詠吟している。勝成と智箭が連歌した百句が現存しており、言葉の使い方や辞句の配置などなかなか質の高いものだという。
 晩年は、京都から俳仙といわれた野々口立圃を福山に呼ぶなどして福山藩の俳諧の興隆の礎を築いた。また学問奨励にも努め、福山藩水野時代に、崎門学派の三傑と称せられる佐藤直方や中島道允・永田素庵を輩出している。

 静かに佇む明泉寺なれば

宗休(勝成隠居後の号) と智箭の連歌

 福山で水野勝成と縁のある寺社となれば、神辺城下より誘致したもの、勝成自身が勧請したものや修理・修復に尽力したものなど、枚挙にいとまがない。
 その中で、駅家の明泉寺は少し変わった縁を持つ。
 府中へ続く街道沿いにかつては広大な規模を誇っていたであろう明泉寺。もちろん今でも充分に広い敷地を有しており、その格式と由緒を物語っている。
 もとは御調郡向島にあり聖徳太子の開基とも云われているが、慶長元年四十五世の智箭が駅屋倉光に寺を遷したそうだ。智箭は林羅山に学び、水野勝成とは俳諧の友であり、前述のように多くの歌を残している。しかもこの明泉寺で、連歌の会が催されていたので、勝成は幾度となくこの寺を訪れているはずである。
 しかし今その面影をことさら主張するでもなく、本寺は静かに古からの地に佇んでいる。
 俳諧連歌は江戸後期になると廃れていき、やがては俳句にとって変わられた。寂しくもあるが、これも時の流れであろう。
 しかしながら時世による盛衰があるとはいえ、かつての人々が持っていた学問・文化への意識の高さは学ぶべきものがある。勝成がもし現在の福山の教育や文化の実情を知ったなら、いったいどのような提言を与えてくれるだろうか。

   

備陽史探訪の会
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