第12回     水野勝成の遺したもの (12)

  
 福山藩主、勝成の第一歩

綱木に残るもやいいし

 元和五年、備後国に入封した水野勝成は、潮待ちの港、鞆に寄港した。
 十六歳の頃より戦場で勇猛果敢に戦い抜いてきた勝成は、二十歳の時に父忠重の家臣を斬って出奔、以来十五年の流浪生活を送る事になる。その間多くの武将に士官するが、一五九〇年に鞆に単身上陸し、備後の国を数年間放浪したのである。その経歴ゆえか大和郡山城主から、西国鎮衛の任を負い備後に転封となった。
 思い出深い地であったろう鞆に寄港後、勝成は、深津湾から市村に上陸し、神辺城へと向かったとされる。(当時は蔵王町の南端が海岸線で、農業研究センターのあたりを根元にして塩崎神社、深津小学校、王子神社のあたりまで半島がせりだしていた)
 その時、勝成の船をつないだ「もやい石」が南蔵王の惣戸神社の参道脇に残っている。石は後に再現されたものであるが、この場所で勝成が第一歩を踏み出したのかと思うと、感慨深い。
 参道を登り、神社裏手の広場から南を望めば、在りし日の深津半島の輪郭が容易に想像できる。勝成はどういう思いを抱いてこの地に立ったことであろう。

 希望はどこまで抱けるか

惣戸神社拝殿

 広大な葦原を埋め立て城下を造成するには、とにかく人手が必要である。幕府の肝いりで入封してきた勝成は、伏見城からの建築材の転用や幕府からの貸付金など、ある程度の計らいがあったにせよ、短期間のうちに城をつくり、干拓し土地をつくり、武士、町人、農民を居住させ、都市として機能させるなど容易な事ではない。 
 勝成は新開地ができると、領内にお触れを出し農家の次男三男を入植させた。彼らが開墾した土地は無償で与えられたため、農地を継げない次男や三男がこぞって入植してきたことは想像に難くない。
 当時の干拓は石垣で潮止めしただけのもので、土地は塩をふき、稲作などできなかったため、年貢は五年間免除されていた。彼らは新しい土地で、藩が奨励する木綿作りに精を出し、農閑期には、新開や溜池の造成工事に一日米二升五合の賃金で使役についた。
 正保元年、市村沖新田(南蔵王あたり)が造成された時も藩費が窮乏していたが、同じ施策を取った。緊縮財政時にも長期計画に基づいた都市計画と民人への配慮を念頭に置いた勝成の政策には、学ぶべきことが多いのではないだろうか。
 無償の土地提供や賃金労働、人々にとって新開地開発は希望そのものだったろう。はるか沖まで続く潮止めの石垣のごとく、人々の希望もはるか未来までつらなっていたにちがいない。
 惣戸神社の裏地に立ち、周囲を眺望しながら、ふと心が揺れた。合併で大きくなった私たち福山市民の希望は、どこまでつらなっているのだろう。

惣戸神社境内から見た景色(市村新田?)

   

備陽史探訪の会
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