第9回     水野勝成の遺したもの (9)

  
 昭和四十年の損失

旧神島町上市界隈 (現在の本通)
旧神島町上市界隈 (現在の本通)

 昭和四十年はどういう年であったろうか。物価高騰や倒産が相次ぎながらも、マッターホルンの北壁を日本人が初登頂し、みどりの窓口開設やミニスカートの流行……、日本は高度成長のただ中であった。福山では日本鋼管が誘致され、翌四十一年に操業が開始される。
 福山が大きく変わろうとしていたこの年、福山の歴史の一葉がひっそりと葬り去られたことなど、たいした出来事ではなかったであろう。
 藺町、医者町、奈良屋町、大工町、鍛冶屋町、魚屋町、桶屋町に米屋町、一見して江戸時代の町割を表しているこれらの町名は、昭和四十年、町界町名変更が実施され、福山から消えてなくなった。
 どの町も具体的な記憶はないのだが、親世代はその後もかつての町名で会話していたので、いずれも耳に馴染んだ名前である。それゆえ、城下の町割を調べながら、失われてしまった歴史の一端が私の中で容易に「今」と繋がり、私がこの地の歴史に連なっていることを実感させてくれる。
 昭和四十年に消えた町名のひとつに神島町(現在の船町、延広町、昭和町あたり)というのがあるが、この町こそ、福山城下で一番最初にできた町家であったことを知る人は少ないだろう。

 経済発展の要、神島町

旧神島町上市界隈 (現在の延広町)
旧神島町上市界隈 (現在の延広町)

 福山の町が何もないところから一から作られた町であることは述べてきたが、水野勝成は城下を造成しながら、町づくりの根回しも着々と進めていった。そのひとつに市場の誘致がある。
 草戸千軒は、中世の頃より明王院の門前市としても、福山の貿易港としてもたいへん栄えた町であるが、度重なる芦田川の氾濫で衰微してからは、鹿島の市(現在の神島町)が福山湾の市場町として、畳表、荒麻、木綿、茶、米などの売買を一手に行ない、興隆を極めていた。
 勝成は城下造成着手時にすでにこの市場丸ごと城下に移るように提案したが、神島の者は、これを迷惑であるとし、移転の必要を認めなかった。
 そこで勝成は破格な条件を提示をしたのである。ひとつは、城下に引っ越せば永代において運上金は取らない事、そしてまた藩の産業として保護奨励していた畳表の専売を許した。場所は城下の一等地である追手門の前(現在の天満屋西の駅前大通りあたり)である。かくして、神島町は城下で最初の町として誕生したのである。
 神島の市は、勝成の期待通り経済発展の要として追手門前で繁栄したが、寛永十七年失火より火災、事の重大さを慮った二代目勝重(後の勝俊)により、後の神島上、中、下町の方へ移転を命じられた。
 母の実家は漬物屋であったが、詳しい事は何も知らなかった。この原稿を書き終える頃、母が神島町で生まれ育ったと初めて聞かされ、不思議な縁を感じた。昭和四十年、城下町の歴史を刻む町名は消えてしまったが、人の軌跡に歴史はしっかり息づいている。年配の方の昔語りに耳を傾けるのもおもしろいかもしれない。



現神島町界隈 (西神島神社より)
現神島町界隈 (西神島神社より)

   

備陽史探訪の会
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