第5回     水野勝成の遺したもの (5)

  
 福山市市随一の神社
山岳公園を背にした草戸稲荷神社を芦田川土手より望む

山岳公園を背にした草戸稲荷神社を芦田川土手より望む


 福山市内に鎮座する神社の数はいったいどれくらいあるのか、境内社や小さな祠までいれると、途方もない数になるのではないか。
 その中で、氏子数や社地の広さなど様々な分野でトップを誇る神社があるだろうが、草戸稲荷神社もそのひとつである。
 現在、毎年40万人以上の参拝者が初詣に訪れる。福山市ではトップ、広島の護国神社に次いで参拝者が多く、合併前の福山市の人口をはるかに凌いでいる。しかも、特異な外観でそびえ立つ本殿は、芦田川沿いを通れば目につくし、夏の花火大会に行けば会場から必ず目にする位置にある。知らない市民はいないのではないかと思えるほど、ポピュラーな神社である。
 それだけ有名な神社であるが、重要文化財に指定されている建造物はない。本殿もコンクリート造りなので、遠方から訪れた観光客もがっかりするということもあるようだ。
明王院五重の塔 草戸稲荷神社拝殿
明王院五重の塔 草戸稲荷神社拝殿

 しかし、閑散期に訪れる草戸稲荷は、なかなか風情がある。真っ赤でど派手な外観と形容される事もままあるが、近くで見れば実際は稲荷神社らしい品のある朱色である。神社らしからぬ本殿の外観は、国内でも珍しい懸崖造。正面の拝殿は桧皮葺きのしっとりとした佇まいをみせていた。(※2007年に銅板に葺きかえられた)
 建物が新しいので歴史的な厚みを感じられない人もいるだろうが、草戸稲荷は、大同2年(807)明王院の鎮守として祀られた。福山開府が元和9年(1623)であるので、その差は歴然としている。
 天空から慈しむ風景

 草戸稲荷はもともと芦田川の中洲に祀られており、古くからたびたび洪水により流失していた。しかし、水野勝成が芦田川の護岸工事を行い、草戸の方へ流路を決定したのが、洪水増大に大きく影響したのではないだろうか。
 寛永10年(1633)勝成が中洲から現在の地に移すように提言し、これを再建をした。
 それからわずか3年後、青木ケ端の堤が崩れ、新田及び千軒町は流失、中洲は壊滅的な被害を受け、以後、中洲には人は住まなくなったと記録にある。
 こうなる事を予見しての移転計画だったのか、とにもかくにも807年からの歴史は守られたわけだ。
 当時どのような形で本殿が再建されたのか、当時の遺物がどの程度残されているのか、知ることはできなかった。本殿隣の草戸八幡神社も空中に造られているということは、本殿ももともと断崖絶壁に造られたものだったのだろうか。
 市内が一望できる本殿に登り、勝成が開拓し未来に夢描いていたであろう福山平野を眺めているうちに、初詣のメッカである草戸稲荷は空高くにそびえていなければならないのだという気がしてきた。
 もし、その昔、勝成がここまで登ってきていたなら、眼下に広がる風景をさぞ慈しんだことだろう。

草戸稲荷神社本殿より眼下に広がる風景

草戸稲荷神社本殿より眼下に広がる風景

   
    

備陽史探訪の会
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