第2回     水野勝成の遺したもの (2)

  
 ここに地始まる 福山美術館庭園より福山城を望む

 福山美術館庭園より福山城を望む

 福山八幡宮へ初詣した帰途、見上げた空は青く、そこには福山城がそびえたっていた。澄んだ元旦の空に、ひときわ赤い高欄が目にしみた。幼少の頃から慣れ親しんだ白亜の五層天守だが、その姿を美しいと感じるようになったのは、ここ最近である。あたりまえのように感じた高欄も、格式のある建物しかないものだと知ったのも、二、三年前のことだ。 
 これまで、そのあたりまえに感じた高欄に、あたりまえのように何度も登った。そして、登るたびに、あたりまえのように見下ろした眼下の風景。
 昔の様子をはっきりと覚えているわけではないが、街並は確実に様変わりしていったように思う。今では、南も東も高層ビルが建ち並び、視界の果てまでコンクリート色の平野が広がっている。けれど一番、様変わりしたのは、自分自身の感じ方かもしれない。かつては、目の前の町こそが、水野勝成の残した最大の遺産なのだということを露知らなかったのだから。
筋鉄御門(重要文化財)

筋鉄御門(重要文化財)

 中世までの備後の要所といえば、万葉の時代から潮待ちの港として栄えた鞆、貿易で賑わった草戸千軒そして、山陽道へ臨む城下町神辺であった。しかし、水野勝成が入封した折、神辺城には入らなかった。陸にも海にも睨みをきかし西国の鎮衛となるべく、常興寺山に新たに城を作ることにしたのである。
 元和五年(一六一九年)水野勝成が常興寺山から見渡せたのは、荒谷と呼ばれる一面葦の広がる干潟であった。その町も村もないはるか箕島まで広がる遠浅の海を干拓し土地を作り、一大城下町を成したのだ。
 鬼日向と異名を取り、十五年もの放浪生活を送った、彼の豪胆さを垣間みる思いである。いくら海拓工事が盛んに押し進められていた時期とはいえ、城下まるごと埋め立てようなどと、凡人には考えも及ばぬことである。
筋鉄御門

 築城400周年に向けて 

 築城に干拓事業、一から町を作るには、費用と人出はいくらでも必要であった。勝成は土着の人々を無理に酷使することなく、正当な賃金や有利な条件のもと多くの人を集め、彼らもまた未来を夢見て、自分たちの町づくりに意欲的に参加していったようだ。
 資材においては神辺城の石積みなどリサイクルできる物は最大限に活用した。取り壊し中の伏見城からも多くの建造物が移築された。
 北側一面に鉄を張りめぐらせた威風堂々たる勇姿を誇った福山城は戦火に焼け落ちてしまったが、移築された筋鉄御門と伏見櫓は現存し、国の重要文化財に指定されている。城を訪れた人の多くはこの御門で立ち止まり、積み重ねた時の重厚さに感嘆をもらすことだろう。
 こうした表の華やかな史跡に隠れるように、天守閣の東にひっそりと水野勝成公の銅像が立っている。市制六十周年を記念して建てられた像である。まだ「城下町ふくやま」が健在だった頃のことだ。2016年には市制100周年、2022年には築城400周年がやってくる。福山という遺産を受け継いだ私たちができることは何だろう、すべきことは何だろうか。
伏見櫓(重要文化財)

伏見櫓(重要文化財)


備陽史探訪の会
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