高原のルモンド
17. 如意宝珠「仙養 狐」由来
2005.08

 幸運には「匂い」がある。それは自分だけの場合かも知れないが、幸運の前後に匂うのである。スリルがなければ幸運はない。思えば、生れ落ちてから私の人生は変化に富んでおり、大げさに言うようだが、スリルと幸運の織物だったかもしれない。
幸運は、ちょっとした身のまわりのことでも、またやっている事業の上でも、例えば、赤信号をめざして進むとき直前で青に変わる、次の信号も同じになる、そしてその次も・・・そのようなとき匂うのである。
それはミルクパンのような温かい感じで、乳に似た匂いである。微妙な脳細胞の作用が起こす幻覚ではあろうが、いつも、なんとも不思議でならない。
ふと思うことは、遠い昔赤ん坊のとき、待ちあぐねた母乳にありついたときのわずかに残る記憶かもしれない。

 さて、運命は自分で決められるものではない。それを思うとき、自分で決められるのは表面のほんの僅かな部分であることに気付かされる。
誰でも一時間後にどんなアクシデントが待ち構えているかわからないわけで、常に平穏と幸運を願っているのが人生と言うものであろう。
ここに幸運を呼ぶグッズがある、と言えば、そんなバカなと、さぞや思われることであろう。無理もない。しかし、なんとそれが現存するのである。
まあお聞きあれ。

 その時、私はウツ状態であった。外は真っ白な雪、ちなみに私のやっている事業はゴルフ場と芝生専門の工事業である。ゴルフ場は数年来の累積赤字が数千万にもおよぶ。これは大変なことである。また芝生の方はこの不景気で仕事もないし、また吹き荒ぶ吹雪の中では何も出来やしない。その上莫大な借入金の返済期限に容赦はないし、第一、自分自身が白血病と言う難病に罹り安静を要する状態であった。四面楚歌の状況下で思うことは、マイナスのことばかり、とても見通しはたたない。かくなる上は家族や多数の社員を一緒に苦難に引き込んだ重罪人として死をもって償うべきか、そんなことまでも真面目に考え、もはやこれまでかとの思いが強く、頑張ったものを愚か者とする「天を恨み世を憎む」思いが湧いてくる。当然であり、その考え方が間違っていないとさえ思ったのである。そんなときは誰にも会いたくなく、テレビで歌番組などやっていると切ってしまうほど心にゆとりはなくなる。

 そう言う状況下でも発明の虫は、私の身体の中のどこかでまだ蠢いている。
インターネットであれこれ見ているうち、ふと、この地域「仙養ケ原」にしかないものを開発すべきではなかろうか、と言う発想が起きてきて頭の中で拡がってきた。仙養ケ原で知られたものは「仙養狐」と「仙養坊」である。
私はまず仙養狐に目をつけた。仙養狐は昔から仙養ケ原に住み、尻尾の先が白く、少し大型だそうで、人をよく騙し、またことによってはよく恩返しをする昔話が残っている。言わば愛嬌たっぷりの伝説上の生き物なのである。
丁度、近所に「まきばの夢工房」と言うのがあって陶芸を教えてくれる。
外は吹雪でも「粘土こね」はできる。それから私なりの雲をつかむような模索が始まった。

「宝珠」は手のひらに乗る大きさです 狐と言えばお狐さま、おどろおどろした形はないものか、と思いあぐねた。
思いついたのはタマネギ状の「珠」に鬼火が燃えている絵を子供の頃、どこかで見て居て、それを記憶の底から引き出したわけである。
それは橋の欄干にある擬宝珠の上の部分だけだから、宝珠と言われるものだろうと、「宝珠」でインターネットを検索してみた、が何も出ない。
幾日が経った後、真言宗の寺の住職である兄から、それは「如意宝珠」と言うものだと教えられ、こんどは「如意宝珠」で引いて見ると、出るわ出るわ大変な情報量(約17200件)で、そのものの何たるかがわかってきた。
また、ペンダントなど水晶で拵えて売っているものも多い。
 古来、「如意宝珠」とは、物質世界の願いを叶える不思議なパワーを備えた宝珠と言われている。
空海が弟子たちに残した遺訓「御遺告」にも如意宝珠の記述がある。「如意宝珠は宇宙をつかさどる如来の意図の象徴であり、生命あるものすべてに慈愛を注ぐ如来の慈悲のあらわれである。宝珠は如来の分身であると言うのが真実である。これは秘密の上の秘密、甚深の上の甚深なるものである。」とある。
また、その扱い方について

 @ 正座をし、両手で宝珠をつつみ込み合掌する。
 A 合掌したまま宝珠に願いを込める。
 B 宝珠を台座(座布団)に置く。
 C 宝珠は一晩そのままの状態で置く、増幅された想念が宝珠の先端から放射される。
 
とのことである。
C についてはよくわからないが、「如意宝珠」そのものについての古い歴史を思えば、笑って見過ごすことのできないものを思う。

 「粘土こね」は意外に時間を食う。眠れぬままに朝四時ごろから朝食までと、会社から帰れば、夜十一時頃まで、別に面白くてたまらぬこともないが、飽きもしない。形を作るには「ろくろ」がいるかと思い購入するが、全然使えない。
石膏型を作ってやってみるが、これもだめ。湯飲みはできても「如意宝珠」は出来ない。型を芯にして、麺棒でそばを打つようにして延ばした粘土を押し付けて形を整え、細部はナイフで削り、乾いてからサンドペーパーで擦る。
それでも乾燥中に割れて折角の物が台無しとなる。今度はナイフで削らないで板切れで叩いて整形をする、これがいまのところ正解だったようである。 そうして何十個も作っているうち、これが本当の形だと言うものが出来てくる。
こうして何とか形は出来たものの次は焼成しなければならない。電気窯を購入して試みるが、これがまた難しい。最初のは全部亀裂が入ってものにならなかった。割れなくなるまでに百個ぐらいの失敗をした。
まあまあのものが出来始めても模索は続いた。近所に住む陶芸人が「われわれもすべて模索ですよ」と言って去ったことにもよる。
 タマネギ状の「如意宝珠」を作って狐の眼を片目だけ入れる。自分はよし出来たと思っても、誰も珍奇なものを見る気持なのであろう、褒めてもくれないし、いわんや感動など全くない様子で、「これは貯金箱?」とさえ言う次第である。
しかし、私は得意であった。何故なれば釜出しのとき、あの幸運の匂いがするのである。そして気がつけば、いつのまにやら長い間苦しんだ私のウツ症状は消えていた。
  
「如意宝珠」苦心の末、出来上がったこの色・形… 手の打ちようもなかったゴルフ場は、いつのまにか活気を取り戻したようである。それよりそれより仕事がなかった会社にどんどん仕事の注文が入り、うれしい悲鳴どころか、人員の配置が足りなくて大変なことになってきた。
ところが突然、うちの提携会社i社の九州支店が閉鎖されることになり、そこの社員全員がわが社へ就職することとなった。思いもしなかった即戦力が偶然わが社のものとなったのである。
お陰でいま神戸空港の新設や三木防災公園をはじめ数ケ所の工事を同時進行している。東京の味の素スタジアム、徳島の三加茂、愛知の苅谷、奈良の桃山など遠くの現場もスムースにこなしている。
わが社のサムライたちもさることながら、私は、そこで「如意宝珠」の効能を思わずにはいられないのである。

 私の電気窯は小さいので一度に四個しか焼けない。やはり釉薬がうまく行かなかったり、疵ものが出たりして人様に差し上げられるものは少ない。平均して歩留まり半分だろうか。
それでも親しい人たちに一個づつ配給をする。勿論、幸運あれかしとの願いからであるが、まだ何の報告もない。しかし、必ず幸運に出会っているはずでありながら、それを気付かずにいるのではないか、とも思う。
重ねて言うが、幸運はスリルがあってこそはじめて訪れるのであり、幸運だけがあるわけはない。こうした現代でスリルをも感じないで生きているとすれば、まことにおめでたいことである。

 思えば、あの吹雪の中で考えた「天を恨み世を憎む」人生の哲学はなんであったのか、人間と言うものの脳は僅かなことで裏表が変わる。ここにもスリルがあって幸運があると言う原理がつくづく思い当たるのである。
その後に起こった事業や、身の回りの数々の出来事は、際どいところで不思議な幸運に満ち満ちている。科学で証明されないものは信じることができない私が、この如意宝珠に出会って、生まれてはじめて不思議に思う事実である。
そう言うわけで、私は如意宝珠「仙養狐」を今日も作り続ける。


 さて、読者諸賢は、話ばかりでは面白くないはず、最近は写真のような狐色を発色することができたことを機に、少し発売をして見ようと思い立った。
「黄そば釉仕上げ、桐箱入り」の「如意宝珠 仙養 狐」を20個にかぎりお譲りしよう。
私の「如意宝珠 仙養 狐」発売は、金儲けを趣旨としていないので、安過ぎるかも知れないが
1個 2万円 (荷造り送料など一切込み)でよろしい。
「如意宝珠 仙養 狐」

1個 2万円 (荷造り送料など一切込み)



【申し込み先】
Eメールの場合   yosifumi@zoysian.co.jp
携帯電話の場合     090-3373-5749
手紙の場合     720-1622 神石高原町 近田 835
                  宮 池 誠 文  宛
「如意宝珠・仙養狐」

ページトップへ
【文責】 宮池 誠文
住所 〒720-1622 神石郡油木町大字近田835
tel 08478-2-2121
e-mail yosifumi@zoysian.co.jp
Copyright(c) 2000-2003 bingo e shotengai. All Rights Reserved.