神石高原福祉地帯化小論 −(続編)−
神石高原
 先に述べた福祉地帯化小論について、 多くの方々から同感である旨のお言葉を頂きましたが、 案の定、総論についてはその通りであるが、結局は、どうすればよいと言うのか、 「具体的にアイデアを示せ」と言うことであり、言わば唇寒き秋風を感じつつあるところであります。 しかし一住民としてこの時期、未だ焦点の定まらない郡内の動きに対して言うべきは言うのが当然ではないでしょうか。
 また、これの具体的アイデアについては、選ばれた為政者の方々によって考えられ実践されるべきものであり、 一個人が出すぎてはよくない分野であろうかとも思います。
 しかし、言い放しで終わるのは批判の的にさえならず、当事者諸賢に何のインパクトもなく、 結局は無視されるであろうことも想像できます。 従って、今一言の続編として、唇寒さをこらえつつ、敢えて申し上げるとすれば次の通りであります。
1.宣言
 神石高原一帯を地方の福祉特区にする宣言は重要であり、かつ急務ではないでしょうか。 それは国、県、または近隣の都市、町村等に知らしめることの効果は勿論のことですが、 さらに重要なことは地域住民に対し、目標を明確にしてそれぞれの自覚を促すことであり、 即ち、地域住民の意志をこれによって統一することが出来得ると思うからであります。
 郡内町村が合併するはずの平成16年はもうすぐですし、 その中で活動するすべての人間の老齢化に猶予はありません。 この老齢化と言うもの自他の上に厳正なる現実であることを知りつつも忘れがちであり、 ここ5年10年に如何なる変化があることでしょうか、 今こそ神石高原地帯の開闢以来の危機と知るべきでありましょう。 これを今までのように逡巡し、もし誤ることあらば猿や猪に明渡す事態が本当に訪れ、 故郷は見るも無惨な荒野と成り果てることでしょう。
 くどいようですが「放置すれば山になる」この度は猶予のない「背水の陣」であることであります。 速やかに「宣言」を行ない、福祉地帯化実践のための4ケ町村合同協議の一歩を進めなければなりません。 なお、この「宣言」はできるだけ派手にやるのがよろしいかと存じます。
2.専門部所の設置
 宣言をしたならば宣言どおり実行しなければならないのは言うまでもありません。 それは現在の役場の福祉課、企画課、の業務の概念を一変させなければ出来ないことで、 後述のアイデアを具体化し、即ち実践する専門部課を編成することが必要となるわけであります。 現在でも時折のヘルパーの訪問は本当にありがたいことと感謝をされて居ります。
 しかしそれを除けば、殆んど放置状態にあるわけで、 油木町だけでも施設への入所希望者が百人以上も順番を待っていると言う話を聞きますが、 問題はこの現実の「姥捨て山」にも似た症状を直視し、如何に人間らしい手助けが出来るか、と言うことにあります。
 近頃はバイクやクルマ以外にも、動きをスピード化し、情報をキャッチする方法があります。 まず徹底的な個別の実態調査を行ない、また記録を整理し、またそれをデータベース化し、 またシュミレーションするためには折角パソコンと言う機械があるのです。

 現状は歴史始まって以来の様相であり、役場はあらゆる方法で実態を把握し、 最善の措置を講じなければなりませんが、残念ながらあまりにも現実を甘く見ているとしか思えません。 現状は突然に出来たものではありません。結局、認識がマンネリ化して居たのです。 ヘルパー派遣だけで済む問題ではないのです。
 要するに危機感に欠け、やる気がなかったからとしか思えません。 これは為政者(議員をふくむ)及び役場の職員は頭脳と身体をフルに活用して、 この地域の非常な事態に対処しなければならないのは管理者としての目下の急務ではないでしょうか。 ここ一番の奮起を願うところであります。また、アイデアについて広く公募することも重要でありましょう。
3.公営老人施設の設営
 
前項に引き続きますが、何ゆえに公営の老人施設がまだできないのか、 思えば不自然とも言える行政の焦点ボケ現象であります。 集落の実態が次第に「姥捨て山」の症状が色濃くなるにつれ、その不自然さは不思議にさえ思えてなりません。 今までのような目的不明の建物施設が出来る程、経済的余裕があるものとすれば、 公営の老人施設が二つ三つ出来てもよいはずでありますし、 これの設営を急ぐことは論をまたないところであります。
 「人はそれを望まずとも最後に介護を必要とする」 家族制度の変化してしまった現在は本当に悲しい時代となりました。 残念なことながら是非もない事態であり、公営の老人収容施設は基本的に必要な施設なのであります。 地域住民を対象とすることは勿論ですが、中国地方を代表する福祉特区にするとすれば、 それなりの規模が必要なことは言うまでもありません。 また将来に於いても受益老人が減少することは考えられません。
 何はさて置き、公営の大規模な老人収容施設の企画及び建設を急ぐ必要を痛感いたします。 例えば、時代の移り変わりを真摯に受け止めるなら広島県油木種畜場が大規模老人施設に変わるなどは、 最も時宜を得たアイデアと思います。 神石高原福祉地帯化の核となるべきメインの施設は必要と思いますが、如何でしょう。
4.無人家屋の登録と再利用
 まだ立派な家屋が無人のまま放置されているのをよく見かけるようになりました。 無人の家は見る見る荒れてしまいます。これを活用する知恵を出せないものでしょうか。
 最近は、NPO(非営利事業体)と言う組織が各方面で活躍していることはご存じのことと思いますが、 神石高原にもこのNPOを立ち上げることや町立公社としての活動によって、 しっかりした貸借契約、または売買契約が可能となるのではないでしょうか。
 放置すれば朽ち果てるものを再度利用することは、勿論、 不在持ち主の心情も充分に考慮した話し合いが前提となりますが、 そうした事情を含めた登録をして整理を進めることが出発点ではないでしょうか。 いずれにしても朽ちるがままに放置するのは知恵のないことと思います。 空家、廃校となる小学校、これに必要な改善費用を投入して、各地できく成功例のようにグループホームなど。 いわゆる貸し別荘的な老人収容施設の一つの形式として活用することは如何でしょうか。
5.放置農地の再利用
 水田のダム機能はよく知られたことであり、これが荒れることは下流にも影響を及ぼす事態が心配されます。 また積み上げた一つ一つの石垣の石にも計り知れないほどの先祖の労苦を思いますが、 同時に感傷が何の役にも立たないことにも気付かざるを得ません。
 また耕地整理をした工事費の一部はまだ借金として残っているところもあるでしょう。
 食糧増産政策からいつしか作付け制限の時代へと変わり、 結局日本農業とくに中山間地域の農家は行政に翻弄され続けた挙句の果ての姿でありますし、 ひと言付け足せば農業者自体の基本的な老齢化と言う自然現象が忘れられて居たことであります。
 機械化可能の農地は別として賃貸などの方法もありましょうが、それ以外の費用対効果が考えられない、 例えば山間の棚田などは植林でもするしか打つ手がありません。
 年老いて農業にこだわり続けるのは自己の健康度との関係を判断しなければなりません。 ただし、採算を重視しない生き甲斐農業はまた別の話となります。
6.健康老人の再起用
 
そもそも老人と言う言葉の定義について考えさせられることであり、 近頃はとくに個体差が大きく年齢によって区別はできないようにも思います。 自分の年齢から「もう年だから」と自分で自分をきめつけることはないでしょうか。 弱気は禁物、弱気になれば病気につけこまれる。 弱気にならない一番の方法は仕事を持つことではないでしょうか。
 アメリカでは就職のとき年齢を問いません。驚いた習慣ですが、 それゆえか元気で活発な老人が多く、80才の現役労働者も居ます。

 日本の今の老人とても波乱の20世紀を生き抜いてきた人々です。 身体さえ支障がなければ仕事を厭う人たちではないはずであります。
 お互いに「人生は終わった」と思い込んではなりません。それは神様がきめることです。 むしろ「人生のリハーサルが終わった。さてこれからが本番だ」とは思えないでしょうか。 例えそれが短い本番であったとしても、 目一杯に働くことこそ自分自身が納得できる生き方であろうかと思います。
 重ねて申しますが、仕事を持つと言うことは責任を負うことでもあります。 その気の張りがボケを防ぎ、健康を保持することにつながり、 これこそが誰もが望む「ピンピンコロリ」の生涯を送ることが出来得る道ではありますまいか。
 この高齢者再起用で人材不足は解決するとは限らないけれど、しかし現況ではこれ以外の方法は思いつけません。 こうして立ち上げることができた公社、及びNPOが活動し、そしてそれを行政が道筋をつけ、 強力にバックアップするとすれば、福祉地帯化事業の成功率は高いと思わないわけには行きません。
 年齢を問わない就職先がある特区、「神石高原村」それだけでも老人を元気付ける価値ある町となるのではないでしょうか。
7.レトロの楽園をめざせ
 先に述べた小論の通り、ただ福祉地帯化とは言いながら如何なる特徴を打ち出すかが問題でありましょう。 それも述べてきたように老人の心身を慰め、励まして元気付ける特徴でなければ意味がありません。
 老人のほとんどは人生を楽しむことに馴れて居りません。 しかし、やはり昔なつかしいものを追い求める心はあるのです。若者の好みとは大幅の格差があります。 何かのイベントでも若者主体で企画するのと、老人たちを喜ばすためのものとでは全然違うのです。 今の時代は、どうしてこうも感覚の違いが出来たのでしょう。
 レトロ(復古調)とは伝統を守ることでもあります。 これを軽く見たり、時代が違うとて笑ってはいけません。老人の過ごした時代は苦難の連続でありました。 今の若者は豊かさの中で育ったのです。苦難のことは話してもわかりません。 その違いが諸問題を起こしているのです。人間は生活が豊かになるほど思いやりがなくなるように思います。
 例えば、テレビのチャンネルを争うが如きでも食い違いが常に多く、 嗜好ばかりではなく、文化そのものが違うのです。 そして悲しいかな、いつも主導権争いを放棄して引っ込むのは老人の方なのであります。
 神石高原地帯は、可能な限り老人の好みに合わせ、老人に主導権をとって頂け、 また老人同志出会いの多い地域にしなければ特徴的とは言えません。 老人対象の福祉特区をめざす上は、 「老人を元気付ける町」または「レトロの楽園」これが新しい町のキャッチフレーズでなければなりません。
8.立派な日本人たらん
 子供を叱りつける親が居ない。同じく恐い先生も居ません。 子供のご機嫌をとりむすぶのを子育てと勘違いしているのでしょうか。 学校でも家庭でも子供はお客様のように扱われてはいないでしょうか。 親子二代が豊かさの中で育ち、幸せが当たり前となってしまっています。 人権だけが前に出て、公に尽くす心はありません。国家を愛する心も知りません。 ただただ自分のことしか考えることが出来ないのです。
 気がつけば情けなや、周りを見れば、昔の日本人のような志のあるものは殆ど居ません。 そのような国民を作ったのは誰でしょうか。確かにいままでの間違った教育や思想もありましょう。 しかし仕事にかまけて、それを見過していたわれわれにも責任はあるのです。
 まず我々自身がしっかりしましょう。日本をこのままにして死んでしまってはなりません。
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