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第 1回 2003.07.15 太刀洗池(神石郡三和町井関)
太刀洗池(神石郡三和町井関) <001>
太刀洗池国道一八二号線を福山方面に向って来見中学校下の信号を過ぎ、峠を越え下りになる所の左手に小さな池がある。これが太刀洗の池である。
 この池のいわれはいろいろあるのだが、代表的なものは次の話である。
 明応四年(一四九五)出雲富田城の尼子伊予守経久は、備後を手中に納めようと、亀井能登、牛尾豊前を褊裨(副将)として、三刀屋・赤穴・三沢等の諸将を以て備後北部を侵し、永正元年(一五〇四)六月中旬に神石郡の諸城を攻略し、百谷多賀山に陣を布いて南方を窺った。山南の城主、渡辺越中守は三百余騎を以て中島(駅家)に陣し、小勢と侮って攻めかける尼子軍とよく戦ったが数には勝てず、すでに危うしと見えた時、安芸毛利興元の軍、備後の山内二郎三郎、和知入道元長、尾越瀬左衛門、江田源八兵衛、木梨民部など一千余騎が馳せつけた。形勢は逆転して北に向って敗走する出雲兵を追って越中守は犬塚に進出し、ここで敵首数級を獲て帰った。この時太刀を洗ったというのがこの池で、太刀洗の池と呼ばれる。
 また、一説には仙台、多賀陸奥守の一族(郎党ともいう)高崎四郎左衛門が、ここを通る時に誰かと果し合いとなり、相手を倒した刀を洗ったともいう。
 さらに「犬塚大明神」の項でも触れるが悪狸を切った刀を洗った池ともいわれる。
 この池は、太刀を洗ったのでその後赤く濁り、飲むと腹が痛くなると言い伝えられていた。これについて現代風に考えると、このあたりから時安方面にかけては銅などの鉱脈があり、また砒鉱もあった。現に鉱山跡も多く残っており、亜砒酸を製した窯跡も残っている。そのような点から推察するに、この池のあたりにその鉱脈の一部が露呈していて、それで水が赤く濁り、またその毒で腹が痛くなったのではあるまいか。
出典:「三和町散策」 松井正夫 著
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