八雲村
「八雲」の名称は「古事記」に、神代の昔、須佐之男命が、ここ須賀の地に宮造りの地として選び 「八雲立つ出雲八重垣妻篭みに八重垣作るその八重垣を」と詠んだ古歌ににちなんだものである。
日本一の巨木「スダジイ」
「スダジイ」とは、高さ30mほどになる常緑高木で、葉は厚く5〜15cmで、葉裏は銀褐色をしています。 6月頃に開花し、8〜12cmほどの尾花序を上向きにつけます。 堅果は長さ1.5〜1.8cmの総ほうにつつまれ、福島県から沖縄に分布します。 堅果はしぶ抜きせずにそのまま炒って食べられます。優れた木炭を作ることができます。 志多備神社にある「スダジイ」は、樹高20m、目通り幹周り11.4mで、村の天然記念物に指定されております。 日本一の巨木「スダジイ」
熊野大社
「日本火初社(ひのもとひでぞめのやしろ)」と呼ばれる火の発祥地である 熊野大社(須佐之男命を祭神とし、古くから祭事も多く受け継ぐ古社) 『出雲國風土記』(733)に熊野大社、『延喜式神名帳』(927)に熊野坐神社と見え、日本火出初神社とも 称され、古来杵築大社(出雲大社)と並びて出雲の國の大社と遇された。 上古朝廷の御尊崇極めて篤く、仁壽元年(851)特に従三位を、貞観9年(867)正二位の神階を 奉らせ給い、且つ殖産興業・招福縁結・厄除の大神として衆庶の信仰が深い。 明治4年國幣中社、大正5年國幣大社に進列された。 特に出雲大社宮司の襲職は当社から燧臼燧杵の神器を拝戴する事によって初まるのが 古来からの慣で今も奉仕されている。 熊野大社
鑚火祭
鑚火祭 熊野大社には多くのお祭がありますが、これらのなかで最も有名で、 熊野大社の特色がよく表れているお祭がこの「鑽火祭」です。 この日は、出雲大社の宮司が「古伝新嘗祭」に使用する燧臼、燧杵を受け取るために熊野大社を訪れます。 この燧臼、燧杵を毎年熊野大社から授けることになっています。 この授け渡す儀を「亀太夫神事」と呼ばれ、 出雲大社が納める餅の出来ばえについて苦情を口やかましく言い立てる変わった神事です。 その後出雲大社の宮司によって「百番の舞」が舞われます。 このとき伶人によって琴板という楽器を打ち鳴らしながら神楽歌を歌います。 前半半分は「アアアア、ウンウン」ととなえ、 後半半分は「皇神を良き日にまつりし明日よりは、あけの衣を褻衣にせん」と歌います。 「百番の舞」が終わると國造が退出し、神事が終わります。
安部栄四郎記念館
意宇川の上流東岩坂川をさかのぼると、山間の小集落、出雲和紙の里・岩坂別所に着く。 松江藩祖松平直政は、越前から紙漉きの技術者を伴って松江に着任した。この紙漉き者中条善左衛門は、松江市野白に紙漉き場を与えられ、和紙は藩の専売事業として始まった。のちには仁多郡の馬馳、広瀬町の祖父谷にも御紙屋ができている。現在、出雲民芸紙の生産で有名なこの岩坂別所は、野白と祖父谷の中間にある。紙漉きにはコウゾやミツマタに適した土質と、豊富で綺麗な水が必要であり、加えて耕地に乏しい山間部で副業を必要とする経済的理由もあるが、岩坂はこれらの条件を満たしていた。明治に入り、粗製品濫造と機械製紙の出現により没落の一途をたどった。 1968年人間国宝に指定された岩坂の安部栄四郎が、かって民芸運動の提唱者柳宗悦の励ましをうけ、民芸紙への方向を示したのが出雲和紙蘇生の第一歩だった。この出雲民芸紙は厚手の雁皮紙、楮紙、三椏紙に持ち味があり、素朴なあたたかさをもっている。 その安部栄四郎の業績を称えて造られたのが安部栄四郎記念館である。栄四郎が漉いた和紙をはじめ、紙に関する貴重な資料とともに、栄四郎と親交のあった棟方志功・浜田庄司・河井寛次郎・バーナード・リーチらの作品が展示してある。記念館の隣には手漉き和紙伝習館があり、和紙づくりを体験することができる。 紙 神のふるさと・・・・八雲村 人間国宝 安部榮四郎が生涯情熱をそそいだ手すき和紙、その素朴で美しく、 強靱な出雲和紙を中心に紙に関する貴重な資料、交友のあった作家の作品・民芸・美術工芸品らを展示しています。
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